
19世紀末~20世紀初頭のトルコやその周辺地域の歴史に興味があり、書籍を読んでいるのですけれど、基礎知識を仕入れるためにWikiを参照しようとしたら同じトピックでも書かれている言語でかなり内容が異なるのが面白い、というか思わぬところで民族間の厚い壁が垣間見えて驚いたりしています。
例えばトルコの南東にヴァンという地方があるのですが、ここの歴史について日本語のWikiで見てもさほど記述が少ないので必然的に他の言語で読むことになります(もちろんオンライン翻訳併用で)。英語で読むのが一番客観的で充実していることが多いのですが(編集者が多いため)、歴史の詳細を知りたくなるとそこで暮らしている民族、そしてかつて暮らしていた民族の言葉でも読みます。
まずトルコ語。そしてクルド語。そしてアルメニア語。これら三つ、同じ地域について記述しているにも関わらず驚くほど内容が異なります。特にトルコ語でヴァンについて調べるとアルメニアやクルドに関する記述はごくあっさりとしていることに気づくでしょう(ところでトルコでは2017年から数年間Wiki閲覧禁止でした。※2019年に解除されたようです)。
ちなみにヴァン地方は、いわゆる平面のドイリー状のもの(トルコ語ではイーネオヤのダンテルと呼ばれる類)がよく作られていたという記述がアルメニア語のレース書籍において記載されています。
ヴァンやマラシュ、そしてアインタブ(ガジアンテップ)は20世紀初頭、迫害されたアルメニア人達を救済するためにアメリカのプロテスタント系宣教師達が学校(教育訓練施設)を設立しており、そこで女性たちが修練し作成した刺繍やレースがヨーロッパやアメリカに輸出されたという記録が残っています。
特にアインタブに関しては非常に有名であり、医師であり宣教師でもあったシェパード夫妻(特にシェパード夫人)については幾つかの文献にその活動が今も畏敬の念とともに記録されているのを読むことが出来ます。(現在で言うと国境なき医師団や国際的なNPO団体のような役割だったのだと推測します)
現在のヴァン地方というかいわゆる南東地域はどうなのか、というと特筆するほど残っている訳ではないようなのですが(昨年知人達がその辺りを回ったのですがダンテルに関しては残っていなかったとのこと。実際そうだろうなとは思ってはいたのですが残念な話でした)。ただやはり、いつかその風景を見てみたいものです。(女性一人で行くには少し危険な地域でもあり、特にシリア国境地帯に関しては私が滞在していた当時はテロが頻発していたため行けませんでした)
ちなみに、初めてイーネオヤのスカーフを被った女性と話したのは初めてトルコ旅行した際、イスタンブールのイェニジャーミー前の階段で休んでいた時だったのですが、その彼女もギュネイドウ(シィルト)出身でした。
24時間バスに乗って、お子さんと一緒にイスタンブールへ来たという彼女は、ビーズ入りの祈祷用スカーフを被っていたのを思い出します。
そして、その後渡航して過ごしたアンタルヤの、イーネオヤのクラスで仲の良かった女友達もシィルト出身でした。夏休みの帰省についてこないかと誘われたのですが、あの時少しだけでも一緒に行っておけば良かったのかなぁなどと今更ながら思ってもいます。
とはいえあの時の私は語学力も今一つで(未だにですが)、トルコの事情もよく分かっておらず非常に危なっかしいことこの上なかったので、行かない判断はそれはそれで間違ってなかったのでしょう。
それはそれとして、Wikiに記載されている内容が正しいかどうかは実際のところ分かりません。正確を期した内容を知りたい時はきちんと出典元(ソース)の記載されている記事であることを確認する必要があるとしみじみ思います。これはWikiだけに限ったことではありませんが。
※写真は、ギュネイドウの彼女と出会った際、イェニジャーミー前の階段からガラタ橋を臨んでの風景。暑くて熱中症になりかけてました。
Kommentare